京都パイルの誕生②

 新しい事業所である黒門通一条下ルは着物で有名な「西陣」と呼ばれるエリア。西陣は通りの幅が狭く、家と家がくっついているので、荷物を積んだトラックで走ると、軒先や庇を擦ってしまい、よく屋根や壁を壊してご近所さんから叱られました。

当時、社長はまだ学生だったので、日曜日だけ雑用の手伝いをやらされていたそうです。

 

「もろびた」って分かりますか? もろびたとは福井の言葉で、餅や蕎麦玉を載せる木製の箱のことを言います。もろびたに新聞紙をひいて、脱水後のまだ湿ったパイルを手でほぐしながら干すんです。それを棚に重ねていき、一番下に火を起こした練炭を並べて乾燥させていました。練炭の火が強すぎると、新聞紙が焦げて、パイルも炭になってしまうので、燃えないように気をつかいました。炭になった練炭のカスを一条通りの水たまりに捨てていたのを何故か鮮明に覚えています。

 

手伝いそのものは面白くなかったのですが、家から工場に行くのに、当時まだ珍しかった自家用車に乗せてもらって行くのがとてもワクワクして楽しみでした。自家用車と言っても空色のダットサンでしたが、それでも車に乗せてもらってるだけで自慢のタネでした。今の故障の少ない車からは想像もできませんが、バッテリーはすぐに上がってしまうのが普通でしたし、昨日まで機嫌よく走っていたのに、翌朝にはウンともスンとも言わないなんてことは、しょっちゅうでした。

 

アルバイト代も貰えないのに、埃にまみれて手伝っていました。でも、それが当たり前でしたし、そういう時代でした。